Now Reports

ナウの10年間

月号で創刊10周年を迎えるフクオカ・ナウ。その記念すべき120号目は我らがナウ創業者であり、現在も編集長を務めるニック・サーズに直撃インタビュー!カナダ出身の彼がなぜ福岡を生活の場とし、何故に雑誌発刊を思い立ち、今も発行し続けるのかを、福岡のインナーナショナル情報誌発刊の歴史と共にアツく語ります。

2、3年の滞在で人生の一部を福岡で楽しむ外国人は増えても、ずっと生活をする居住外国人がほとんどいない現状において、これからも愛する福岡で暮らしていきたいと考える彼は何をしようとしているのか?創刊時から「いつ、どこで、何が、福岡で”今”起きているのか」をスローガンに掲げるナウは、これからもイチオシの見どころ、押さえどころなど、福岡を楽しむための情報をお届けします。

ニック・サーズ カナダ・トロント出身 在日23年 フクオカ・ナウ発刊人&編集長
’90年より福岡に居を構え、フクオカ・ナウ発行人として、そして在住外国人として福岡の街と深く関わり、次第に国際的な場でも彼の活躍は知られるように。’06年には、それまでの地域社会への貢献と国際化に向けた功績が認められ「福岡県文化賞」を受賞。

そもそもなぜ『日本』なんですか?
大学を卒業したら(カナダ人の学生の大半がそうであるように)どこかに旅行するつもりでしたので、漠然と「何か違うもの」を求めてアジアを目的地に選びました。ボンベイやバンコクがどんな街で、どこにあるのかすら知らないまま。
旅はロンドンから始まり、ヨーロッパを経てシベリア横断鉄道に乗りました。そしてフェリーで初めて横浜に着いたのですが、当時の私の正直な感想は・・・「がっかり(笑)。」私がイメージしていた日本は、サリーを着てサンダルを履く人が行き交う、インドのような強烈な異文化を感じられる国。違う何かを求めてせっかくアジアに来たのに、当時の日本はトロントとあまり変わらなかった。恥ずかしながら、それほど日本やアジアに関して無知でした。


当時の私が考える「リアルなアジア」を求めて再度大陸へ渡り、様々なアジアの国や地方を見て回りました。そしてネパールに着いた時、カトマンズ郊外にチベット仏教の外国人用コースがあると聞いて、漠然と興味をもったことを覚えています。当時の私は家族も含めて信仰する宗教はなく、どちらかといえば「世の中なんてどうにでもなる」なんて考える、今思えば生意気な若者だったと思います。
そんな私がこのアジア旅行の間に、決して豊かではない環境なのに微笑みを絶やさず明るく、強く暮らしている人々がいるということを知りました。そして知らない外国人である私にすら、すっと救いの手を差し伸べてくれるたくさんの人々との出会いなど、今までと異なる多くの経験や価値観が、私の魂を大きく揺さぶりました。
宗教自体には関心はありませんでしたが、この場所には何かしら強く引き寄せられるものがありました。世界中から大学の教授など、様々な人がチベットに集まっていたのも、そう感じるのが私だけではなかったということだと思います。もちろんチベット仏教の外国人用コースには参加し、講義や座禅など真剣に取り組みました。今まで全くスピリチュアルなものに興味がなかった私が、あらゆることについて知りたくなっていました。
まぁ、詳しい話はさておき、アジアにとても関心を持つようになったことは事実です。私にとってアジアは偉大な教師でした。その後カナダに戻ってしばらく働き、お金を貯めるとまた旅に出ました。チベット仏教を学んだ影響で、ビルマ、ネパール、インドの仏教にも関心をもつようになっていましたので、今度は周遊するのではなく、同じ場所に9カ月間滞在し様々なことを学びました。
その経緯で、日本には英語を教えながら仏教を学べる場所があると聞いて、東京の品川にある禅寺に辿り着きました。小さいお寺でしたが非常に厳しいところでした。説法は全て日本語でしたが、禅を学ぶのに多くの日本語を知る必要はありませんでした。頑に座禅をする日々が1年ほど続きました。


そして福岡へ。
仏教研究が一段落し寺を出た頃には、引き続き日本に滞在したいと考えるようになっていましたので、日本語を学び、東京や大阪の日本企業で会社員として働きました。’90年にアップル社のソフト製作会社への就職面接のために、初めて福岡に来ました。東京や大阪と比べてこじんまりとしていましたが、地下鉄もあってドームも建設中の活気ある街だと感じました。物価も環境も生活するには快適で、ここ福岡に腰を据えることを既に考えはじめていました。
初めてのマガジン発刊はフロッピー媒体
’93年に地元福岡のソフトウェア会社に勤めながら「Tango」という、私にとって初めての雑誌発行を趣味としてはじめました。当時としては画期的な、クリックすれば見たいものが探せる現在のwebサイトのようなインターフェイスを取り入れた電子マガジンを、フロッピーディスクで配信していました。今のナウの縮小版のようなものをバイリンガルで提供していた「Tango」は、3号目発行の頃にある地元情報誌発行人の目に留まりました。私は英語情報誌発行のアイデアを売り込むチャンスを得たのです。
こうして九州初の英文媒体「レーダーマガジン」が誕生します。レーダーは国際人のコミュニティーに関するものばかりを取り上げ、街頭インタビュー記事満載の有料雑誌で、デザインは全てカナダ在住のデザイナーが担当。当時としては珍しくBBS経由でデータのやりとりをしていました。
その後レーダーは2年半ほど続けることができました。
今の私があるのもその会社での経験の賜物ですので、とても感謝しています。しかし、その会社に利益貢献ができる媒体として存続できなかったことも事実でした。それでも私は素晴らしい福岡のことを外国人向けに情報配信することに諦めがつかず、日本語と英語のバイリンガル表記で無料配布、そして自ら営業を行う、レーダーとは方針が異なる情報媒体を発刊することを心に決めたのでした。
その後、福岡の外国人にとって、唯一のコミュニケーションツールとして重宝された「バンブーネット」と呼ばれる、約500人もの外国人の有料利用者を誇ったオンライン電子掲示板システムの立ち上げなど、試行錯誤を繰り返し、約2年の準備期間を経て「フクオカ・ナウ」が誕生します。創刊号発行は’98年12月25日。クリスマスの創刊日は、一日中外で出来立てのナウを配り歩きました。
もともと私のように日本語を読めない・読まない人も街の情報は必要としている、ということを知ったことがナウ創刊のきっかけです。レインボープラザのような行政の施設は、外国人が生活するために必要な情報は充実しています。しかし、例えば今週末、福岡でのイベント情報や、友達と遊ぶ場所、温泉の楽しみ方など、生活を楽しむための情報はほとんどなかったのです。これらの情報は、私をはじめ私の周りの友人たちにとっても重要な情報でしたから、ビジネスのチャンスもあると確信したのですが、そもそものきっかけは『必要性』。
外国語需要のマーケットは未だに小さいですし、私が雑誌制作のために費やした時間を、英語を教えることに置き換えたなら、もっとお金持ちになっていたでしょうから、ある意味私のヨミは外れています(笑)。
ともあれ不思議なことに、日本で数年間過ごした後に日本を離れる、という感覚は当時からありませんでした。むしろ、ここ福岡に”私”がいるための存在意義や、街との関わりを探していたのかもしれません。ナウを介して誰かが仕事を見つけたり、友達ができたり、週末に面白いイベントを楽しんだり、中には「生涯の伴侶をみつけた!」なんていう話を聞くと、この仕事を続けてきて本当によかったと思います。発行人冥利につきます(笑)。

ナウのこれから。
私たちがナウを通して実現したいことは創刊当初から変わらず「人々が福岡を楽しむための正確な情報を提供すること」。
最近イベント主催にも力を入れていますが、そういったイベントを通じて人々が仲間を作ったり、コミュニティを広げているのを目にすると、実際に人と人を繋ぐことに関わることができることを誇りに感じます。お客様から「ナウ以外に私たちが広告を出せるメディアが福岡にはないので、ナウがあってこそ私たちのビジネスの成長と発展がある。」と言っていただいたことは今でも忘れられません。私たちフクオカ・ナウは、カナダから来た一人の外国人が10年前に始め、今もフリーマガジンとして継続する会社です。この事実が外国人をはじめ、多くの人々に何かしらの影響を与え、貢献できる何かを始める後押しになるといいなとも思います。
私企業として運営していくには、常に経済的に緊張感溢れる日々ですが、デザイン、翻訳、編集などのサービスも立ち上げ、雑誌発行が継続できるよう、会社としての仕組みを強化しています。これからも私たちだからできること、しなくてはいけないことを常に追求して、信頼いただいている読者やお客様の期待に添えるよう頑張らなくてはいけません。これからも私たちをご指名いただけるよう会社も私も日々アップデートしなくてはいけませんね!

Interview by Robert Morgan
Originally published in Fukuoka Now magazine (fn120, December, 2008)  
Category
Others
Fukuoka City
Published: Dec 1, 2008 / Last Updated: Jun 13, 2017

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ページトップに戻る