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お世辞は真に受けてはダメ?

とつの国だけにいると、半分外国人の血を受け継ぐ私は何者なんだろう、と不思議に感じるときがあるの。小さい頃からお箸を使って納豆を食べ、ひらがなやかたかなのドリルをして育ち、今では恥ずかしいけど14歳の頃にはジャニーズのうちわを飾っていたわ。けれども私の名前は日本人にとってはひどく発音しづらい上に、日本人の母より白人の父のルックスを多分に引き継いでいるから「あら、お箸を使うことができるのね!」との周囲の反応から、血統や文化を表すには“見かけ”が意味をもつことを学んだわ。

ともあれ、母から受け継いだはずの日本人としての部分には、永遠に使わないと思われるものもいくつかあるわ。例えば、英語のレッスン料を入れて手渡してくれるカラフルなぽち袋とか、ショップの店員みたいにカラーコンタクトやつけまつげ、ハイプラットフォームの靴に気を配ることに朝から時間を使うなんて私にはできない…。それから、比較的融通が利いて、家族が住むカリフォルニアと福岡を頻繁に行き来している私でさえも未だに分からないのが、日本独特のお世辞と謙遜。

私が覚えている最初の謙遜は、多くの日本人の子供が経験しているのと同じよう、母の知人の前で母が私の首の後ろに手を回してお辞儀をさせたことにはじまるわ。そのときに見た自分のつま先を未だに覚えているし、感謝の気持ちどころか、どれくらいこれが続くの?母はいつ手を離してくれるの?って思いだけが残ってる。今でこそあらゆるお辞儀を使いこなせるけど、以前は、母の友人たちから受けるお世辞への対応には母をそのまま真似していたの。「レイチェルさんは可愛いわねぇ。」「レイチェルさんはとても賢いのね!」と言われたら、即座に顔の前で手をふり頭を横にふって「そんなことないんです。」が常套句。その度に傷つく12歳の私に向かって母は、これは本音でなく日本の文化なのだと嗜めたものよ。

数ヶ月前から福岡で英語を教え、一方では19歳の学生である私にとって、納豆や大半の日本の礼儀正しい慣習もお手の物になったけど、日本風お世辞を受け入れるのは至難の業。その難解な日本のお世辞の慣しには4段階あって、まず最初はお世辞を言われることがスタートよ。通常そんなに深い意味のものはなく「日本語がお上手ね!」とか「ハーフの女の子ってなんて可愛いんでしょう!」など。次はすかさずそのお世辞を否定する番よ。ここでボーナスポイントを得るには、自分を否定するような言葉を使うことができるかにかかってるわ。例えば「いえいえ、私の日本語はひどいものです。」とか「あなたの方が可愛いわ!」それから、私の薄っぺらな日本語能力や半分日本人の器量でも足りるくらいの軽い会話に参加するの。できる限りそれを引き延ばした後にようやく、照れ笑いしながらお辞儀をしつつお世辞を受け入れればOK!

私のもつ2つの文化間衝突には数えきれないくらいの実例があるけど、それは毎日の出来事のひとつにすぎないわ。アメリカ人としては、賛辞はプライドをもって受け入れるべきだと薦められ、日本人としては謙遜を優先し、真に受けるべきでないとされているの。私は常に周囲に合わせるようにしているけど、ミニチュアサイズのこの国におけるフリーサイズ表記が「レイチェルさん」にとってはフリーサイズであるはずもなく、窮屈な思いをあえて強いられているだけに感じるわ。これは気分のよいことではないし、外国人だろうとそうでなかろうと、私だけが感じていることではないと思う。間違いなく「謙遜」は素晴らしいことよ。でも言われて気分が良くなることであれば少しは浸っていてもいいんじゃない?と思うんだけど。ね、ドーデショ?


レイチェル カントレル
カリフォルニア、アメリカ
学生、英語講師

Originally published in Fukuoka Now Magazine (fn164, Aug. 2012)

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Fukuoka City
Published: Jul 25, 2012 / Last Updated: Aug 1, 2019

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