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召しませ、九州スイーツ

菓子。その甘くしあわせな響き。クリームたっぷりの洋菓子に雅(みやび)な彩りの和菓子、コンビニに並べられたスナック菓子からお母さんの手作り菓子まで、世の中には数多くのお菓子が存在する。そのなかでもちょっと格上の特別なお菓子、それが銘菓(めいか)である。具体的に銘菓ってなに?と、手もとにある辞書をあらためてひいてみる。と、「めいか【銘菓】-特別な名をもつ上等な菓子」と出てくる。

ふむふむ。由緒ただしく受け継がれて来た菓子、それが銘菓というわけだ。思い起こしてみれば九州には銘菓が多い。そのひとつひとつには様々なストーリーが秘められ、九州とお菓子との関わりの歴史をひとたびひも解けば、背後には大河のような壮大な世界が…っていささか大げさだが、九州のお菓子にはいろいろおもしろい事実が隠されていたりするのだ。日本人には懐かしく、海外の方には新鮮な九州銘菓の世界。甘くてふか~いその歴史を年代別エピソードでたどってみよう。

博多はまんじゅう発祥の地


いまや日本全国どこに行っても手に入るポピュラーなお菓子、おまんじゅう。もともとは中国のお菓子だったまんじゅうが最初に伝わったのは博多の街だった。13世紀、博多区内に承天寺というお寺を開山した聖一国師(しょういちこくし)という僧がいた。彼は中国・宋で禅を学んだ経験があるのだが、そのときに覚えたのが酒まんじゅうの作り方。帰国後、西公園付近に托鉢に行った際、茶屋で親切にしてもらったお礼にそのレシピを教え、その後、茶屋が売り出したのがはじまりといわれている。ちなみに聖一国師はまんじゅうの他にも博多山笠やそうめんの製法も伝えた博多の文化重要人物である。

九州・砂糖街道の歴史

長崎から小倉を結ぶ長崎街道。この道は別名「砂糖の道」と呼ばれている。長崎には以前よりポルトガルなどからの南蛮菓子をはじめとする様々な文化が流入、栄えたということはご承知のとおり。その後江戸時代に入って鎖国がはじまると長崎の出島は西洋、アジアへの唯一の交流窓口となる。当時、出島でしか手に入らなかった砂糖は大変珍重され、幕府への贈り物として長崎街道沿いに江戸まで運ばれていった。道中でお世話になったひとへのお礼の品としても使われ、そんな中でお菓子として形を変えていった。砂糖の大量輸入によって「砂糖街道」沿いに九州銘菓の歴史が花開くこととなった。

筑豊炭田とお菓子

筑豊炭田が好景気に沸いた1900年初頭、飯塚地方にはまんじゅうや菓子など甘いものを扱う店が多く集まるようになる。炭坑夫たちが疲労回復の源を甘いものに求めたのである。炭鉱内での過酷な労働条件ゆえ、明日の命をも知れないという意味で“宵越しの金は持たない”と言われた筑豊のひとびとの気風は経済を活性化させ、お菓子の質もあげることとなる。また、三井・三菱などの大手企業が進出し、東京・大阪といった大都市との往来が活発だったために筑豊の味は全国に広まり、さらに発達することとなったのである。

Originally published in Fukuoka Now magazine (fn63 Mar. 2004)
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Fukuoka City
Published: Mar 1, 2004 / Last Updated: Jun 13, 2017

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